人はなぜ物語を欲しがるのか|奇跡のレストランと神秘的な儀式からの考察

エッセイ

【奇跡のレストラン】

ディズニーランドのレストランで子がいないのに、お子様ランチを頼んだ夫婦がいた。生まれて数カ月で亡くなった子の誕生日が来るたび食事を用意して、その子が生きていたらと偲んでいると聞き、本来、大人だけでは注文できないお子様ランチを特別に用意した。その従業員の対応が神だと称賛される。

【神秘的な儀式】

前後左右もわからないほど真っ白な雪原を、イヌイットの初老の男は怒りが収まるまで歩き、収まったと自分が納得したら杖を刺して怒りの墓標とするという逸話。

アンガーマネジメントがうまくできないことを密かにコンプレックスに思っている私には、素晴らしい先住民の知恵として映り、泣くほど感動した。

後で知ったのだが、この2つ本当かどうかはわからないらしい。以下は私が調べたことである。

1つ目はオリエンタルランド(ディズニーの運営会社)の公式にはない。オリエンタルランドの元社員の著書や講演会で話されたエピソードであるし、元祖はデパートのレストランという説がある。

2つ目は歴史的に本当のことなのか文献で残っておらず、あくまでそういう風習があったようだという推測の域を脱しないのだ。アンガーマネジメントの実践案としてビジネスセミナーなどで重宝されているという。

ディズニーランドならイヌイットなら、そんな魔法みたいなこともあり得ると人は簡単に思ってしまうのではないか。実際私はイヌイットのことは実話だと信用した。 

イヌイットの話に根拠がないと知ったときはかなりがっかりしたものだ。

2つに共通するのは講演会やビジネスセミナーといった話す場で語られやすい映える話であること。物語的であるといっていい。

人はなぜこのような物語を求めるのか?現実から逃避したいのか。

それとも心に染みる物語でまだこの世も捨てたものではないと思いたいのか。 

おそらく、どちらもなのだろう。 

しんどいことが多くストレスフルな現実の中にいて、私はああいう話を「嘘だから無価値だ」と切り捨てる気にはなれない。

あれはたぶん、世界を良くする光じゃなくて、心に灯す蝋燭みたいなものだと思う。

ほんの少しの間「そんなこともあっていいかもしれない」と思わせてくれる火。

その火で世界全部を温めようとか照らそうとか、そんなことに使おうとするからおかしくなる。

感動話は広がりすぎると、どこかで無理が出る。映画などにしないで小さく灯しておくくらいがちょうどいいと私は思う。

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