知人の熱心なアイドルへの推し活にふと心が揺れることがある。
彼女は毎月、当たり前のように5、6万円を推しのために使い、その瞬間は間違いなく幸せそうである。けれど、傍で見ていると金銭的には決して楽ではないのだ。貯金はできていないらしいから、少し心配になる。また自分のための美容や、心身を整える余暇にほとんどお金をかけない姿はストイックすぎて、不健康な危うさをも孕んでいるように見える。
推しに大金を捧げる高揚感は、ホストに貢ぐような熱狂に似ているのかもしれない。知人に言うと怒るから言わないが……ホストは決して一介のお客を1番にはしてくれないし、ギブしてくれるものといえば甘い言葉と一過性の満足ぐらい?
入れ込みすぎや貢ぎすぎというのはメンタルが不安定になることも多い。というのも、もしもその推しが自分以外の誰かに心を移したり究極は結婚した途端に、裏切られたとこき下ろし誹謗中傷をする人をよくSNSで見かけるのだ。おそらくこんなに私はあなたのためにお金を使ったのに尽くしたのに、と恨み節が炸裂するのだろう。
でも推し推される関係性の外側の人間の私からすれば、そんなふうになるぐらいなら最初から推し活などしないほうがいいのではないか――。相手の幸せを心から願えるうちが、推し活の「花の盛り」なのではと思う。
もちろん、誰かを全力で応援できる情熱は素晴らしい。否定はしない。なぜなら私も昔確実に推しはいたから。
私には2年近く毎月1通のファンレターを送っていたアーティストがいる。堂本剛さん、とてつもなく人気のある人である。ファンレターは天文学的な数であろうから、読んでもらえていたとは考えにくい。見返りはもちろんない。でも彼が読んで楽しい気分になるように毎回趣向を凝らしてしたためたものである。出演番組や映画の感想を書いたり、時にはクイズを考え、答えを貼り付けた紙で隠してという、仕掛け絵本みたいにしたり!
見返りはないものの良かったと思うことはここまで情熱を注げる相手を自分が持てたという、自己肯定感かもしれない。熱情の過ぎた今はそう思う。
現在、私にはここまで思い入れられる推しはいない。
そして最近は「自分が一番の推し」であってもいいのではないか、と思っているのだ。
今の私は、自分という存在を磨き、自分の言葉を紡ぐことに時間と労力を割いている。短歌、詩、小説、ポエトリーリーディング、そしてこのブログ。そんな「自分推し」の生活が何より楽なのは、人生における「卒業」や「結婚」といった大きな転機さえも、すべて自ら望んだ選択であり、不可抗力ではないという点だ。
この「自分推し」の活動を10年、20年と積み重ねていった先には、さらに眩しい可能性が待っている。
もし自分の発信する言葉が多くの人の目に留まるようになれば、いつか、かつての「推し」にさえ、自分の存在が届く日が来るかもしれないのだ。SNSの世界では、自分が推していた存在から逆に「推される」ことだって、可能性はゼロではない。それは、自分自身を磨き続けてきた人だけが見られる、最高に夢のある景色。
自分を一番の推しとして、慈しみ、プロデュースしていく。そうして自分の人生を謳歌しながら、その余裕の中で誰かの幸せを願う。それこそが、一番風通しの良い、健やかな歩み方なのだと感じている。
夢物語ではないのだ。よく考えてみて欲しい。天文学的なファンレターの中から私の1通が読まれる可能性と、年間30編✕20年分のブログ記事をネット上に置いて、それを推しが見つける可能性。こちらのほうがアリな世界線である。
「この人のブログが好きで読んでます」と彼が公で言うことはないだろう。おそらくその世界線の答え合わせは叶わない。でも届くと信じていたあの頃のように、宛名のない言葉を空に放ち続ける、彼が愛したソメイヨシノの花びらのように。それも一興と、笑って。

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